Alexisomia(アレキシソミア・失体感症)の意義
なぜAlexisomia 概念が必要なのか
心身症患者などでみられる自己の感情の気づきや表現に乏しい傾向は、アレキシサイミア(失感情症)とよばれている。Ikemiらはアレキシサイミアのケースでは、身体感覚の気づきも低下していることが多いとして、身体感覚の気づきや表現に乏しい傾向をアレキシソミア(失体感症)と呼んだ。
感情と身体とは深い関係があるとされる。特に未分化な感情であるほど、身体(症状)との関連が深いとされ、感情の気づきの低下は身体への気づきの低下と関連する。これは「心」と「身体」が表裏一体の関係とされることとほぼ同義である。従って、アレキシサイミアとアレキシソミアは共通部分が大きく、完全に分離できる性質のものではない。
このように両者は表裏一体の関係にあるものの、アレキシソミアの概念にはいくつかの重要な意義がある。アレキシサイミアの概念は、Sifneousらが、精神分析などの治療を行おうとしてもそもそも自己の感情に眼が向いていないので、治療が深まらない特徴を持つ一連のケースがあることから提唱したものである。すなわち、精神療法の視点からみたので感情への気づきが問題になったわけである。
そのような患者群は身体にも眼が向きにくいことは心療内科などの臨床でよく経験される。一方で、感情への気づきより身体への気づきが特に乏しいと思われるケースも少なからず存在する。少なくとも、そのような視点から眺めた方がより適切に捉えられると考えられるケースがある。
前者はどちらかというと西洋的な視点であり、心が上位にあるとする視点であるかもしれない。後者はどちらかというと東洋的な視点であり、身体を、心と不可分でかつ、より根元的なものとしてとらえた視点である。感情への気づきは捉えることが難しい。感情は他者から見ることができず、主観的な存在だからである。感情が具体的客体として表れたものが身体である。従って、身体を軸に見た方が、より実体を捉えやすい。
以上のようなことから、身体を軸に、身体面の視点から、感情や身体への気づきが低下した状態を捉えようとしたのがアレキシソミアであるということができよう。
共通点・相違点と臨床的意義
アレキシソミア・アレキシサイミアは単に気づきの低下のみならず、より本質的に身体、感情、知性などのアンバランスさや相互の機能的な乖離という側面があり、何らかの機能的乖離があるという点は両者で共通している。しかし、その乖離のレベルに違いがある。
生理的観点からみると、大脳新皮質レベルと大脳辺縁系レベルとが機能的に乖離した状態がアレキシサイミアとすれば、新皮質レベルと辺縁系レベルだけでなく、脳幹や身体レベルとも機能的に乖離した状態がアレキシソミアと考えられる。
臨床的には、気持ちを聞いても全く深まらない特徴が大きいケースはアレキシサイミア、身体の状態や感覚を聞いてもピンとこない特徴が前面に出たケースはアレキシソミアと捉えることができる。前者は精神療法が深まりにくいという臨床的問題が大きいが、後者の場合は、受療行動や対処行動などの行動レベルでの問題までも生じやすく、場合によっては生命の危険に及ぶ。
例えば、気管支喘息で実際に気道狭窄がありながらそれに対する感覚や認識に乏しく、受療や対処行動が遅れて生命の危機に瀕するケース。吐血しながらも切迫感がなく、受診が遅れてしまうケースなどがある。
アレキシソミアの観点を持つことで、このようなケースの生命予後の改善が期待される。のみならず、身体をも含めた機能的な乖離やアンバランスさは、心身症の病態の本質にかかわるものである。裏返せば、身体、感情、知性などがつながって、「こころ」と「からだ」の調和のとれた状態は、人間の本質的な健康につながるものである。