生と死  


近年はアメリカのテロにはじまり、イラク戦争、就職問題、経済状態の悪化 に金融機関の破たんと、不穏な情勢が感じられる。日本では、終身雇用制度の破綻 は大企業に依存する生き方のもろさを露呈した。世界では、イラクの動乱が徐々に全世界に波及し、平和の混乱が引き起こる可能性は常に否定できない。

しかし、社会がどのように変化しても、いや、社会が動乱すればする程ある意味で輝きを増してくるものがある。それは刑務所と病院と墓場である。 刑務所は罪人を収容するところ。人間は欲望のかたまりであるから罪悪はな くならない。毎日のように起こるいろんな事件で警察、裁判所は大忙しである。

病院は病を治すところ。生身の人間にいつまでも健康ということはあり得な い。”肉体は病の器”。どんなに医学が発達しても、それをあざ笑うかの如く、さらなる病が出現してくるから、病はなくならない。故に、病院もなくならない。

墓場は人間が最後に入るところ。生きているものは必ず死ぬから、墓場は人類とともになくならない。

罪は生に収まり、病は死に収まる。
すなわち”生と死”の問題は人間にまつわる根源的な問題であるということだ。この根源的問題に対して私逹はどれほどその重要性を認識しているだろうか。特に、これからやってくるところの「死」について、真面目に見つめる心がどれほどあるだろうか。

とにかく毎日が「忙しい、忙しい」と過ぎていく。生きることと楽しむことに精一杯で確実に迫り来る死についてはなかなか目がいかない。そもそもあまり考えたくもないことだからだ。また、考えても分からないとあきらめているかもしれない。

どれだけ眼をそらしてやりたいことをやっていても、時間は確実に進行しているという事実は変わらない。ちょうど宿題を山ほどかかえていながら遊びに行っても心底楽しむことができないのと同じで、死から眼をそらしたところで真に充実した明るい生は得られない。

ある人は述懐した。
「自分の今までの人生で一番真面目になったとき。それは母親が亡くなってその遺骨を拾い集めていたときである。」

また、ある大学教授は言った。
「ただ、人は、薄氷の上をわたりながら、自分の踏んでいる氷がそのように薄いものであることを感じないだけである。
いつ崩れはじめるかわからない安心感の上にあぐらをかいて、たよりにならないものをたよりにして生きているのである。」

テレビドラマ「僕の生きる道」が静かな話題となり、今なお語られているのもうなずける。

限られた生であるからこそ、今日の一日が大事であり、今の一瞬が大事になってくる。
麻酔薬は一時苦痛を和らげ、ゴマ化してはくれるが、麻酔が醒めたら苦痛と体面しなければならない。やがて、私逹はどんなことをしてもゴマ化すことの出来ない自分の最期と、自分だけで対面しなければならないときが、必ず来る。

これは物事を肯定的にとらえるとか、否定的にとらえるとか、楽観的であるとか、悲観的であるとかという次元の問題ではない。死を見つめるということは、生を見つめるということなのだ。
 
この事実から眼をそらして生きることは絶対にできないということだけは肝に銘じておくべきだろう。


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